---
絵師・文字書きや動画配信者など(以下まとめて創作者と呼びます)が、「下手だ、伸びない、反応が貰えない、売れない…」などと落ち込んでいるのを見て、「いつも応援しているのに、反応を送っているのに、それを無視する・蔑ろにするなんて酷い、自分の反応は届いてないんだ…」などと傷ついたり落ち込んだり怒ったりしている人をたまに見かけます。
そしてそれらには創作者のそういった反応を、非難したりたしなめたりする反応も多く寄せられます。更には、絵師(創作者)は面倒くさいな、という嘲笑混じりの反応も少なくない印象です。
これ、受け手のそういう反応も分かるんですが、私は創作者側の方がより良く分かるので、この手の話を見る度にモヤモヤしてしまいます…。出来ればちょっとだけ、一人の創作者側の視点・考察を聞いてもらいたいと思い、記事にしてみます。これが正解だという類の話ではなく、あくまで一個人の考え方なので、参考程度に受け止めていただけたら幸いです。
創作者側としての言い訳と考察
絵師や文字書き、その他の創作者や動画配信者などの、「下手だ、伸びない、反応が貰えない、売れない…」などという嘆きについての個人的な考えを羅列してみました。「ネガティブな発言は良くない」という意見に反対するわけではありません。が、こういう考え方もあるのだなと考えていただけたら。
額面通りの言葉ではない場合
人って何かを表現する時に、誇張したり大雑把だったりする言葉選びをしてしまうことがありますよね。反応がない、伸びない、売れない…なども、本気でゼロやそれに等しいという意味でなく、誇張や大雑把な表現をしているだけの場合もあります。
なら正しく慎重に言葉を選ぶべきだと思われるかもしれませんが、自分自身常にそう出来ていますか?しかもメンタル的に落ち込んでいる時に。私は自信がありません…。
自分の理想に届いていないの意
言葉選び以前に、下手だ、伸びない、反応が貰えない、売れない…などの多くは、自分の目標や理想(の数)に届いていないという意味合いの場合がほとんどのはず。例えば「全然いいねが付かない」という人の投稿に100いいねついていたとして、100が本当に視覚的に認識出来ていないとは考えられませんよね。
あくまで「イメージしている域と比べて」であって、「ない」の前には「目標・理想に比べて足り」(ない)が隠れていると考えたほうが良いと思います。
ネガティブ思考による排除
人の心理には「ネガティビティバイアス」というものがあります。ポジティブな情報よりもネガティブな情報に注意を向けやすく、記憶にも残りやすい性質を指します。何かの判断を下す際には、ネガティブ情報の方が影響力が強いのです。
こういう心理現象もあるため、個人から受け取った反応を一時的に過小に捉えたり、思考から排除したり、忘れてしまったりしている、ということもあり得ます。
数を気にする=個々を重んじていない?
「そういう話ではなく、数量や理想ばかり意識して個々からの反応の重みを認識しない・ファンひとりひとりを大事にしていないことが嫌で許せないのだ」という人も当然いると思います。
でも、「理想を気にすること」は「個々を大切に思っていない」とイコールなのでしょうか。どちらも共存し得るものじゃないですか?反応一つ一つ、ファンの個人個人を大切に思いながらも、能力値や数量的な視点で目標・理想に未達であることを嘆く、というのは成立し得るはず。
「そもそも数量的なものや誰かと比較した上手さなどは気にすべきではない」という考えも聞きますが、何かに取り組む目的は人それぞれで良いですし、目標や理想を追うことも全く悪いことではありませんよね。そう出来るなら心理的に楽になるとは思いますが…。
数量的な視点では
何かを人目に晒す場合、必ず「自分 対 不特定多数」の構図が発生します。自分対AさんBさんCさん…と常に個々で捉えられたら素敵ですが、いいねの数や再生数や売上などを考える場合は、この「自分 対 不特定多数」の構図になります。そしてこの場合、たとえ特別視されている存在であっても、不特定多数の一部として捉えられることになります。
もう少し分かりやすく販売が絡んでくる例を上げると、どんなに特別な人からでも、見知らぬ誰かからでも、同じ物を1つ購入された場合は同額の利益になりますよね。心理的には差が出ると思いますが、金額という目標の上ではそういった目に見えない価値は加味されません。
この様に、数量的な視点においては、個々の反応の重さや大切さは切り離されます。なので「その嘆きは単に対不特定多数という視点上の話であって、個人からの反応を重く受け止めていないとは限らない」と言うことが出来ると思います。
何か目標や理想がある人にとって、それが未達であれば、ネガティブな感情が起きるのは当然と言えば当然。でも、誰しもが「大切な人が反応してくれたから未達でも良し/達成時と同等の価値を得た」などと考えられるわけではないと思うんです。
不特定対数の中の一人
繰り返しになりますが、何かを不特定多数の人目に晒す行為は、その人にとっては「自分 対 不特定多数」の構図です。自分からは「その人 対 自分」に見えても、状況によっては自分は「不特定多数の中の一人」になります。悲しいですが、必ずしも相手が自分に対して、自分から相手へと同じ熱量を向けているとは限らないのです。
例えば何かの催しやセミナーなどで、初対面の複数人とやりとりを交わしたとします。10人と名刺交換をしたとして、あなたはその10人のことやその時交わした話を、一週間経ってもそれぞれきちんと覚えていますか?大抵の人は相当意識しない限り無理です。
もし「その人 対 自分」として捉えてもらいたいなら、相応のアプローチをする必要があります。これについては以降の「伝える側として」で後述します。
人前で嘆くなって結構厳しい
商業作家ならブランディングに直結しているのでまあ別として。創作者って何かを提供するエンターテイナーとしての側面があるせいか、そういう嘆きの吐露自体、厳しく否定されがちな印象があります。「受け手・お客様の為に人目に付く場所では常にポジティブでいるべき」というのは確かに理想的ではありますが、まあまあ難しい…。だってSNS上なんてよほど意識しない限り、エンターテイナーとしての振る舞いに徹底出来る様なところじゃないから。
正直なところ、自分の思う創作者の理想像を押し付け過ぎ(自分で課している場合も厳しすぎ)な気もします。自分が受け手=客の立場になるからって、一般人にエンターティナーとしての振る舞いを求め過ぎるのは良くないんじゃないかな…。
勿論、同じことで何度も悩んで落ち込んで堂々巡りをしている人を見続けるのは、受け手の精神衛生上にも良くないのは確かです。しつこい、鬱陶しい、見ててしんどいと思えてくるのも当然の反応でしょう。でも、「努力しても理想に届かない苦しさを人前で吐き出すこと」の数回くらいなら、許してあげても良くないでしょうか…?
自分の方を分析する
創作者でなく、反応をする立場からも考えてみます。
相手に何を求めているのか
創作者などの嘆きに落胆したり怒りを感じるのは、自分の反応などが無視された・蔑ろにされた・無意味だったと感じるからだと思います。これを逆に考えてみると、相手に対して、自分の反応を大切にして欲しい・重く受け止めて欲しい・一個人と認識してもっと大事に向き合って欲しい…など期待しているということになりますよね。
極端な例ですが、いいねを押したり、あまり交流のない状態で一言二言よくある言葉をかけるだけの立場の人がそれを求めるのって、相手にとってはなかなか大変な要求ではないですか…?私の場合、余程沢山反応を送っていたり相手に印象付ける行動をしていない限り、まあ重視してもらえないのも仕方ないな…と思ってしまいます。
自分の言動の価値
また、自分の言動は相手にとって価値のあるものだという認識が、無意識にでもあるということ。自分の立場、自分と相手との関係性などを踏まえた上で、自分の行動や発言が相手にとってどれほどの価値があるのか?を考えた場合、あまり響かないのも妥当かもしれないと思えることがあります。
勿論、面識のない立場からの些細な一言でも大切に大きな価値あるものとして受け止めてもらえたら嬉しいですし、創作者側としても出来る限りそうしたいとは思うのですが…。なかなか難しいものです…。
伝える側として
※別記事にすると書きましたが、短くまとまったので追記にしました。
応援・感想を伝える側が、相手にそれを忘れないで・蔑ろにしないで欲しいと思う場合に意識しておきたいことを書きました。
印象に残る言葉選びをする
創作して不特定多数の人に見せている場合、複数人から反応を貰えている事も多いはず。「好き」とか「応援しています」のようなよく聞く短い言葉だけなら複数人に言われていて、逐一誰が何と言ってくれたかまで覚えていない可能性も高いです。残念ですが、反応を貰えたことまでは覚えているとしても、それがありきたりだと、「誰がどんなことを」までは印象に残りにくいのです。酷いと思う人もいるかもしれませんが、自分が人に言われた些細な誉め言葉を逐一挙げられるかを考えてみれば、なんとなくその難しさが分かるのではないでしょうか。
なので、折角何かを伝えるなら、印象に残る言葉選びをするのを心掛けたいところです。言葉はありきたりでも、例えばオフ活動している人なら手紙としてお渡しするとか、オンラインであっても感想を背景付きのテキスト画像にするなど一手間加えれば、普通よりも印象に残りやすいはずです。
個人として認知されるのも大事
自分の立場も、相手へ伝わる度・覚えてもらえる度に影響が出るものです。例えば同じ絵を描く人だったり、書き手でなくても良くやりとりをする相手だったりすると、それだけでもそうでない人より印象が強くなります。ありきたりな短い言葉しか言えない非創作者でも、複数回接触すれば印象には残りやすいはずです。
ネガティブを超え得るように
…という表現は少し極端ですが…。前述の通り、ネガティビティバイアスによって、好きと言ってもらえた・応援されたことが過小評価されたり、一時的に頭の隅に追いやられてしまうことがあります。でも例えば、熱烈で長い感想をくれた人がいたら、ちょっと変わってくるかもしれません。落ち込んで評価してくれる人がいない…と思ってしまっても、よほど印象が強ければふと過ぎることもあるはずです。折角手間をかけて感想を送るなら、出来るだけ強い印象を残せるようにというのを、少し意識しておきたいなと個人的には思っています。
余談・まとめ
一部反感を買いそうですが、正直な話、そういう嘆きを面倒くさいって言っちゃうのって、他者の目に晒す為の何かの製作に本気で取り組んだことがないからじゃないのか?と思うんですよね…。
何かを公開する人の中には、見てもらう・手に取ってもらう等ということを主な目的としておらず、反応の有無をあまり気にしないでいられる人もいます。でも基本的には、誰かの目に留まる期待が少なからずあるはず。でなければわざわざ人目が付く場所に公開しませんからね。嫌でも比較が起きる場所で全く気にしないでいられる程のメンタルを持つ人って、なかなかいないと思います。
また、創作者から見たら1(自分)対 不特定多数という構図になっていること、つまり自分からみた場合の一対一の構図ではなく、常に複数人を相手にするという立場であるということを、意識したことがないのでは?とも思いました。
でも、もしかしたらこれらは体験をしないと分からない感覚なのかもしれません。
この考えが相互理解に少しでも役立てば良いなと願っています。